スパイスカレーとは― 海軍カレーから大阪スパイスカレーまで、日本のカレー文化をたどる旅 ―

スパイスカレーとは

改めてスパイスカレーとは何なんでしょうか。

ルウを使ったカレーでもなければ、本場インドのカレーでもない、しかしながら「カレー」と呼ばれる何か。

そんな曖昧で自由な存在に、なぜ今これほど多くの人が惹かれるのか。

本記事では、日本のカレーがどのように生まれ、そして大阪で「スパイスカレー」という文化へと進化していったのか、また神戸を中心にカレーを食べ歩いてきた立場からも、その土地と文化の違いを感じながら、すごく簡単にではありますが、まとめてみました。

この記事を読み終えたとき、「スパイスカレーとは何か?」という問いに、少しだけ自分なりの答えが見つかるかもしれません。

目次

第1章 日本のカレーのはじまり

カレーの起源を語るとき、よく「海軍が広めた」「明治の文明開化で入ってきた」といった説明を耳にします。

諸説あるようですが、本章では、その背景を「料理」「文化」「社会」の3つの軸からたどってみます。


インド・イギリス・日本ルート

明治初期、西洋の文化が入ってきたことで、日本に“洋食”という新しいジャンルが生まれました。

明治5年(1872年)の料理書『西洋料理指南』には、すでに「カレイライス」としてレシピが記載されています。

ただしこの時代のカレーは、インドから直接入ってきたのではなくイギリス経由で伝わったもので、小麦粉でとろみをつけたものでした。


海軍ルート

明治期、日本海軍では脚気(かっけ)が深刻な問題となっていました。

当時の食事は白米中心で、ビタミンB₁が不足していたため、多くの兵士が脚気にかかっていたといいます。

これを防ぐために、肉・野菜・小麦粉を組み合わせた栄養食としてのカレーが導入されました。

当初はイギリス海軍を参考にしカレーはパンにつけて食べていたようですが、パンの評判が芳しくなかったため、ごはんにかけるようになったようです。

肉からタンパク質を、野菜からビタミンを、小麦粉から炭水化物を補い、さらにスパイスの香りで食欲を促す――。

その実用的な組み合わせが評価され、やがて日本人の主食である米にかけて食べる“カレーライス”へと発展します。

海軍の食文化が全国の学校給食や家庭料理に波及し、“カレー=エネルギー食・栄養食”というイメージが広まっていきました。

第2章 神戸のカレー(洋食編)

ホテル系

関西でカレーといえば、どうしても大阪の印象が強いですが、関西のカレーを語るうえではずせないのが神戸。

ベースとなる洋食文化は明治の開港とともに始まります。

1858年の日米修好通商条約によって設けられた「外国人居留地」は、欧米の食文化が日本で最初に根づいた場所のひとつでした。

1870年には初代オリエンタルホテルがオランダ人の手により開業。

その後、フランス料理店「レストラン・フランセーズ」のフランス人オーナーのルイ・ベギュー氏が1887年、ホテルを81番地に移転(諸説あり)。

そういった流れもあって フランス料理の影響を受けています。カレーもその影響を受けたひとつ。

第一章でふれたように、文明開化のタイミングではイギリス式、もしくはイギリス海軍式のカレーがはいってきたことを説明しました。

イギリス海軍式の場合、いわゆる肉じゃが風のカレーで、たまねぎはそこまでソテーされていなかったといいます。

一方で、フランス料理の影響を受けた旧オリエンタルホテルのカレーはというと、ダブルオニオンという製法が用いられています。

これは玉ねぎをソテーするだけでなく、フライもするため そのように呼ばれるわけですが、フライのほうは揚げたあとに乾燥させ、パウダー状にするという手間も暇もかかったもの。

なので、イギリス海軍式のカレーとはルーツが異なります。

旧オリエンタルホテルは1995年の大震災を経て休業ののち 閉館しています。

よって、当時のシェフも散り散りになったわけですが、そのシェフに弟子入りし当時のレシピを継承しているのが2013年創業のSionです。

船系

港町神戸にはそれとは別の系譜の洋食文化をもつ店もあります。

陸にあがった船内コック、いわゆる船系の系譜です。

その代表格が、1923年創業し、100年以上の歴史がある伊藤グリル。

創業者の伊藤寛氏は日本郵船の船コック出身で、船上で学んだ西洋料理の技術を生かして神戸に店を構えました。

そのほかにもかの文豪 谷崎潤一郎が店名を名付けたことでも有名なレストラン「ハイウェイ」。

ハイウェイは創業者が急死したため、後を継いだのが、当時 日本最大の客船で「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸の厨房で働いていたコックの大東八郎氏。

大東八郎氏は陸にあがり、このハイウェイで働いていました。

その大東八郎氏の次男 大東二郎氏が1984年に創業した洋食屋のビストロ・ジロ―。

そして大東八郎氏の孫もまた、グリルDAITOという店を神戸でオープンしています。

同じく船コック出身で有名なのはグリルミヤコ。

「100年以上の歴史を持つデミグラスソース」はあまりにも有名ですが、先代の宮前敬治氏が創業、洋食文化の草創期を支えた一軒です。

第三のグループ

その後、グリル十文字やグリル一平、そしてグリル一平で修行後 独立したグリル末松など、戦後世代の洋食店がこの文化を受け継ぎ、カレーを含む“神戸洋食”の多様な系譜を形づくっていきました。

ビストロジロー、グリル十文字、グリル一平、グリル末松ではカレーメニューをいただいたことがあるので、個別で記事にしたいと思います。


第3章 神戸のカレー(インドカレー編)

第2章では神戸の洋食屋ホテル系と船系、第三のグループについて触れましたが、忘れてはならないのがカレーの本場インドの影響です。

神戸には神戸インドクラブというインド人コミュニティの拠点があります。

創設は1904年で、なんと120年以上の歴史をもちます。

(神戸インドクラブでは水曜日(不定期)のみですが、北インド料理のランチをオーダーすることができます。)

その流れもあってか 神戸 北野、中山手には、インド・パキスタン・バングラデシュ出身の商人が集まり、スパイス、茶葉、宝石を扱う専門店が開かれました。

当時インド料理店もあったとはいいますが、日本人に提供するというよりはインド人コミュニティ向けだったようです。

時は流れ、1970年には大阪万博もあり食文化も国際化がすすみます。

神戸もその流れを汲み 1970年代には本格的なインド料理店が誕生します。

その代表格が1973年創業のゲイロード。まさに神戸インドカレー文化の象徴ともいえます。

タンドリーチキンを西日本にはじめて紹介したのもこのゲイロード。

ゲイロードは震災によるビルの倒壊などもあり何度か移転しつつ、最終的にはマリンピア神戸で営業をしていましたが、最終的には閉店しています。

しかし、その味を受け継ぐ3人のスタッフが新たに店を立ち上げています。

それがLord Indian Restaurant(ロード・インディアン・レストラン)。

ゲイロードのスパイス使いやカレーの設計思想を継承し、“神戸インドカレーの記憶”をいまに伝えています

ゲイロードよりも前に、神戸最古級のインド料理店とされるのが1963年創業のデリー。

北野町近くで長年愛された名店でしたが、現在は閉店していますが、神戸スパイス文化の記憶として今も語り継がれています。

1978年には、インドを旅した日本人オーナーがシャミアナ(Shamiana)が開業。

オーナーの方が周辺に住んでいたインド人に呼びかけて立ち上げた店舗です。

ムスリムモスクの近くにあった本店の店舗は閉店され、元町のカレー専門店でのみ営業されていました。

その後 親族のかたが引き継ぎ、しばらくの休業を経て2025年1月にリニューアルされました。

リニューアル前、リニューアル後のシャミアナについてはこちらをご覧ください。


こうして神戸では、インド人が作る本場のカレーと、日本人が「再構築」したスパイスカレーが共存する街へと発展していきます。

第4章 大阪カレー


薬とスパイスの街・大阪 ― 国産カレー粉の原点

大阪が「スパイスカレーの聖地」と呼ばれる背景には、実は100年以上前から続く“薬とスパイスの街”というのも大きな理由と考えています。

江戸時代から明治にかけて、道修町(どしょうまち)には薬種問屋が集まり、生薬とともに胡椒や肉桂(シナモン)、丁子(クローブ)などの香辛料も扱っていました。

明治期に入ると、薬種商たちはその技術を近代化し、製薬業として発展させていきます。

特に「道修町の御三家」と呼ばれた 田辺(現・田辺三菱製薬)、武田(現・武田薬品工業)、塩野義(現・塩野義製薬) は、明治〜大正期の企業家活動によって大阪の近代産業を牽引しました。

こうした環境の中で、1905年に誕生した薬種問屋「大和屋」(のちのハチ食品)は、薬の調合技術を応用して日本初の国産カレー粉を生み出します。

大阪には古くから「医食同源」という考え方があり、香辛料を“薬効”として取り入れる文化がありました。

つまりスパイスカレー文化は、料理としての自由さだけでなく、“薬と食の融合”という大阪的発想の上に成立した文化ともいえるのです。


自由軒 ― “混ぜカレー”という前史

空前のスパイスカレーブームの登場よりもはるか前、大阪ではすでに“自由な発想のカレー”が誕生していました。

それが、明治43年(1910年)創業の自由軒です。

店に行ったことはなくても、名前は聞いたことがある、レトルトなら食べたことがある、そんな方も多いのではないでしょうか。

自由軒の名物カレーは、ご飯とルウをあらかじめ混ぜて皿に盛り、その上に生卵を落とすという独特のスタイル。

「炊飯器がない時代に、熱々を出すための工夫だった」ともいわれています。

味変にはウスターソースをかけるのが定番で、一皿の中で自由に味を完成させるスタイルは、のちのスパイスカレーにも通じる“混ぜて完成”の思想を先取りしていました。

常連には作家・織田作之助もおり、彼が愛した「自由軒のカレー」は文学にも登場します。

大阪人にとって、自由軒は庶民の洋食であると同時に、自由な味づくりの象徴でもあったのです。


インデアンカレー ― 甘辛の衝撃

戦後の大阪で、もうひとつの“味覚革命”を起こしたといえるのが インデアンカレー(1947年創業) です。

その特徴は、一口目に感じるまろやかな甘さと、数秒後に襲ってくる鋭い辛さ。

この“二段構えの味設計”は、今でも多くのファンを魅了しています。

公式サイトによれば、創業当初からの味の骨格 ―「甘みと辛みの共存」は一貫して守られており、時代に合わせて調整はされながらも、基本レシピはほぼ変わっていないといいます。

また、徹底した職人気質も有名で、初めて客にカレーを出す社員は“手が震えるほど緊張する”というエピソードも。

一見シンプルながら、精緻なバランス設計で成立している点は、のちのスパイスカレー店にも通じる「味の構築美学」といえます。


カシミール ― “シャバシャバ”とスパイスの自由

そして1992年、大阪・北浜にカシミールが誕生します。

店主・後藤明人氏の手によるカレーは、小麦粉を使わずサラリとした“シャバシャバ系”。

スパイスの香りと出汁の旨味が繊細に重なり合うその味は、当時の「とろみのあるカレー」しか知らない人々に大きな衝撃を与えました。

今でこそ大阪ではスパイスカレーが定着しましたが、1990年代初頭にこの味を出したこと自体が今考えると異端であり、革新だといえます。

「今まで食べてきたカレーとはまったく違うのに、おいしい」―― その体験は、“カシミール的体験”として多くの人の記憶に残ったと思います。

大阪はもともと出汁文化が根づいいた土地。

旨味と軽さの共存に親和性があり、さらに自由闊達な気風の中で、新しい表現が受け入れられやすい環境も整っていたと思われます。

カシミールの誕生は、まさに大阪という土壌が生んだ必然の革新だったのではないでしょうか。


スパイスカレーの拡張と現在

カシミールを源流として、2000年代以降、大阪ではスパイスカレーというムーブメントが急速に広がります。

南インドやスリランカの「ライス&カリー」から影響を受けた“副菜多皿スタイル”や“合いがけ文化”が浸透し、「混ぜて完成させる」食べ方が一般化しました。

出汁・酸味・辛味・香りを自ら設計し、小麦粉ではなく素材とスパイスで味を組み立てる。

それは、料理を“レシピ”ではなく“表現”として捉える姿勢そのものです。

現在の大阪スパイスカレーは、音楽、アート、サブカルチャーとも融合しながら進化を続けています。

そしてその背景には、薬の街から始まり、自由軒・インデアン・カシミールへと連なる「大阪的自由」の系譜が流れています。


第5章 欧風・家庭用・スパイスカレーの違い ― “自由”が宿る第三のカレー


日本のカレーは、同じ「カレー」という言葉で語られながら、実際にはまったく異なる発想から生まれた料理たちです。

洋食の技法で磨かれた欧風カレー、
家庭に定着したルウカレー、
そして自由を掲げるスパイスカレー。

この章では、それぞれの特徴を整理しながら、なぜスパイスカレーが“第三のカレー”と呼ばれるのかを見ていきます。


欧風カレー ― イギリス式とフレンチ技法の融合

欧風カレーは、イギリス式カレーを基礎に、フレンチの調理技法を融合させて再構築された“洋食のカレー”です。

小麦粉とバターのルウでとろみをつけ、ブイヨンやデミグラスソースで深い旨味を重ね、ワインやチャツネの甘苦さで仕上げる――この多層的な味わいこそ欧風カレーの特徴です。

もともとの原型は、明治期の海軍を通じて伝わったイギリス海軍式カレー。

それが神戸や横浜の洋食文化の中で、“ソースの国”フランスの技法(フォン・ルー・ブイヨン)が取り入れられ、現在のような重厚で奥行きのある味へと進化していきました。

欧風カレーは、時間と技法を重ねて“完成”を目指す料理。

いわば、職人の技による構築のカレーといえるでしょう。


家庭用カレー ― “誰でも作れる”国民食

戦後、日本の家庭にカレーが定着した最大の要因は、1950年代に登場した固形カレールウと、1968年発売の大塚食品「ボンカレー」。

粉末カレーを固形化したことで、計量いらず・失敗知らず。

レトルト化によって、湯煎や電子レンジで温めるだけで食べられる。

この“再現性と利便性”が、カレーを国民食へと押し上げたと言われています。

「おふくろの味」「家族の味」として広まった家庭用カレーは、小麦粉ルウによるとろみとまろやかさが特徴。

どの家庭にも共通する“安心できる味”が、社会の中に共通言語のように広がっていきました。

ただし、この「とろみの構造」が、後にスパイスカレーが誕生する余白にもなります。


スパイスカレー ― 自由と設計のカレー

スパイスカレーは、“ルウを使わない”という一点から始まりました。

小麦粉に頼らず、スパイス・素材・出汁の組み合わせで旨味を設計する。

大阪のカレー職人たちは、科学と感性のあいだで、「軽さ」「香り」「混ざる楽しさ」を追求しているようにおもいます。

そのスタイルには共通の要素がいくつかあります。

  • 小麦粉不使用(素材のとろみや粘度を活用)
  • 酸味や出汁の旨味を重視(トマト・節・昆布など)
  • 副菜やアチャールを添え、“混ぜて完成”を楽しむ
  • スパイス配合の自由設計

もちろん例外はあるでしょうが、これらは単なる調理法の違いではなく、料理を表現として捉える発想です。

つまり、スパイスカレーは“自由に味を構築する思想”そのものなのだといえます。

欧風カレーが“完成の料理”、家庭用カレーが“安心の料理”だとすれば、スパイスカレーは“探求の料理”。

そこにあるのは、作り手の個性と、土地の文化が溶け合う動的な味の世界ではないでしょうか。

スタイル主な特徴味の方向性文化的背景
欧風カレーイギリス式+フレンチ技法コク・重厚・濃厚洋食・技術・職人文化
家庭用カレー固形ルウ・レトルト再現性・まろやか・安心感家庭・大衆文化
スパイスカレールウ不使用・副菜・出汁軽さ・香り・多層性自由・創造・大阪発文化

まとめ

スパイスカレーとは決まった形を持たないカレーです。

小麦粉やルウに頼らず、香り・出汁・酸味・辛味を自分の感覚で設計していく――それはレシピというより、“表現”に近い営み。

日本のカレーがたどってきた長い歴史の中で、ようやく到達した“自由の味”、それこそが「スパイスカレー」なのかもしれません。

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